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はすまつりとお墓参りに行ってきました

毎日危険な暑さが続きますね。

今日は昨年6月、84歳で旅立った実母のお墓参りに行く予定でしたが、日中はあまりに暑かったので、日中の墓参りは避けて、夕方に出かけてきました。

近くでは、湖面に咲き乱れる蓮の花を小型遊覧船で観光するローカルイベント「はすまつり」が開催されるので、ついでに蓮の花を撮影できたらいいなと思っていました。


今思えばこれ以上ない理想の旅立ち


母は、亡くなる2年ほど前から、認知症の気配がありました。

母と同居する実家の兄に言わせると、母のわがままがひどいようなことを言っていた時期もありましたが、たまに母と会う私が感じる老化や認知症の気配は、会話の中の5%程度しかなく、会話が噛み合わないことがあっても、高齢者と思えば余裕の許容範囲でした。

そんな母の最後は、心不全による急死でした。

長期で入院することもなく、病気で苦痛に苦しむわけでもなく突然倒れ、それをたまたま実家を訪問した叔母(母の妹)が発見した、と言う最後でした。

周りの人に面倒をかけることを嫌っていた母にとっては、これ以上ない、理想の旅立ちだったと思います。そんなこんなで、亡くなった後しばらくは、叔父や兄といい意味で楽しく酒を酌み交わす機会も増えました。

このお墓には、母の実母と実父も眠っています。

中でも、実父(私の祖父)は他界して50年以上。実父(私の祖父)が亡くなった時の年齢は57歳で、母よりも27歳も若いことになります。

節目節目の墓参りで亡き相手と会話を重ね、関係性の相互確認をしていれば、もしも親の年齢を飛び越えて旅立った時、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような時空のねじれに困惑することはないのかもしれません。「墓参り」とはそういう確認作業でもあるのかもしれません。

しかし、この墓の中で、いったいどんな会話がなされているのでしょうか。


「はすまつり」はいかに


結論から申し上げれば、到着した時点で、本日の営業は終了していました。

営業中で遊覧船が稼働していたとしても、はすは一部を残して咲き終えたようでした。

実際はこのような感じです。

見頃は8月上旬でしょうか。

機会があればぜひおいでください。


蓮の花と仏教との関係は


蓮の花は、「悟り」の象徴とされているようです。

蓮が育つのは、汚くて濁った泥沼。泥沼は、仏教においての人間の煩悩を表し、人生に待ち受ける様々な苦悩や悲しみに例えられます。
そんな泥沼の中で育っても、汚れに負けず、清らかに咲く蓮の花が、悟りに例えられます。
このように、蓮の花の生き様が、仏教の考え方そのものと言えるので、非常に関わりの深い花とされているのです。出典:https://www.worldbridgeclub.net/post/lotusandbuddhism

無菌状態でいることやそれを目指すことが、美徳とされがちな現代社会。

その感覚は、間違っているとは思わないけれども、それが正しいとも思いません。

大事なことは、汚れに負けず、清らかに咲く生命力だと思います。


泥を吸って美しく咲く蓮の花


2017年に撮影した蓮の花

蓮の花を語る上で、忘れられないのが「網走監獄」の鏡橋からの蓮の花の眺めです。網走監獄へは、駐車場をでた先の池にかかった「鏡橋」を渡って入所します。

網走監獄の公式サイトには、鏡橋について「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、自ら襟をただし目的の岸にわたるべし、との思いが込められている」という紹介記事が記載されていました。

「網走監獄」には何度か行ったことがあります(観光客として、です)。施設内には様々なリアルな展示や体験ブースがありますが、網走監獄の最大の特徴と価値をひと言で言うとすれば、「鏡橋」にあると私は思いまます。

なぜなら、入所する服役囚も面会人も、その箸を渡るので、いろんな感情を受け入れてきた橋だからです。

わずか数十分の面会のために、1週間も電車を乗り継いで網走監獄の受付窓口を尋ねる乳飲子を抱えた母親と看守の蝋人形。

網走監獄内には、様々な人間ドラマがリアルに再現されています。


とりあえず無事を報告


母は、湖面いっぱいに咲き乱れる蓮の花を前に、日々過ごしていることと思います。

私は今、変わりようもなくまだ泥の中にいます、と手を合わせ、無事を報告しました。

日本人には、宗教観とは無関係に、春秋のお彼岸とお盆の年3回、絶妙な時間間隔で先祖や人生観を冷静に見つめる機会が定着しています。人生を豊かに送るための定期点検のようで、素晴らしいシステムです。これからも時折、立ち止まって、進むべき道を見誤らないようにしたいと思います。

最後までご覧いただきましてありがとうございました。それでは今日はこの辺で。

博物館 網走監獄 公式サイト